アレン・ギンズバーグ
Issue 16
Kyoto speaks
「それまでに学んだことが信じられなくなったので、読むのをやめた。
LSDが何よりも大きな影響を及ぼした。」
1991年、KJ 16号『Kyoto Speaks』では、京都に住む58人に話を聞いた。インタビューを受けたほぼ全員が、目の前で伝統文化が失われて行く様を嘆いていた。当時の日本経済はバブル景気の真っ只中にあり、京町家の並ぶ街並みが壊されていった。
この号でインタビューした中に、70年代京都の「カウンターカルチャー」に参加した僧侶・庭師でドラマーの福村祖牛師がいた。この写真は、その後1988年に、アメリカのビート詩人アレン・ギンズバーグにより撮影されたものである。右から、祖牛師、のちの大徳寺管長・高田明浦師(中央)、そして伝説的詩人ななおささき氏(左)が並んでいる。ギンズバーグは、高い評価を受けていた自身の詩 『Howl(吠える)』 を京大西部講堂で朗読するために来日していた。アメリカからビート作家の多くが京都を訪れたのは、大徳寺で禅を学んだゲーリー・スナイダーの影響が大きい。京都を訪れたスナイダー、ななお、ギンズバーグ、片桐ユズル、アラン・ラウ、パトリシア・ドネガン、ジョン・ブランディ、白石かずこ等、大勢の作家の記事や詩が Kyoto Journal のページを飾った。ある意味、Kyoto Journalはこういった詩人たちのレガシーを連綿と体現してきたといえる。
2枚目の、小さい方の写真は、撮影中のギンズバーグ。撮影した渡辺眸は、日本におけるカウンターカルチャーの記録をライフワークとし、ベトナム反戦運動で東京や京都の大学の構内でバリケードを作った学生と警察との衝突を記録した写真で知られる。(写真提供:福村祖牛)
